米ロサンゼルス市警が81年のロス銃撃事件で元輸入雑貨会社社長、三浦和義容疑者(60)を殺人などの疑いで逮捕した。(以下省略)
(livedoorニュース:[三浦容疑者]FBI「新証拠発見」と連絡 銃撃実行関連かより引用)
いわゆる「ロス疑惑」事件が起きたのはおよそ28年前のこと。japanjapanjapanはまだ生まれていませんでした。しかし、三浦和義氏が「サンデー・ジャポン」などテレビ番組に出演していたのを何度か見たので、事件のことは知っていました。
↓事件の概要についてはこちらのWebサイトを参照
Wikipedia:ロス疑惑
「疑惑の銃弾」事件
しかしながら、今日の記事では事件そのものについてコメントするつもりはありません。
私が今回の記事で問題にしたいのは「一事不再理」です。「一事不再理」とは、簡単に言えば、一度無罪になった人に対して、もう一回裁判することはできない、ということです(正確な説明とはいえませんが)。この原則は、日本とアメリカ両方の憲法で定められています。以下に条文を示します。
日本国憲法第39条
何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
アメリカ合衆国憲法第5修正
何ぴとも、大陪審による…(中略)何ぴとも、同一の犯罪について重ねて生命または身体の危険にさらされることはない…(以下省略)
(田中英夫(編集代表)BASIC英米法辞典より引用)
日本とアメリカの「一事不再理」は同じように見えますが、実はアメリカの方が厳格です。アメリカでは、一審で無罪判決が出れば、検察は控訴できず裁判は終了します。ですので、日本みたいに、地裁で無罪判決が出たけれども、高裁で有罪判決が出た、ということはありえません(多分)。
しかし、「一事不再理」の原則はあくまでそれぞれの国での話。つまり、日本で無罪判決を受けた人を、アメリカで同じ事件でもう一度裁くのは合法なのです(と、各国の司法は解釈している)。
でも、果たしてそれでいいのでしょうか。
私は、今回の三浦氏の逮捕は「不当逮捕」だと考えています。日本で無罪判決が出たのだから、同じ事件でアメリカの司法が裁く権利はないと考えています。理由は2つあります。
1点目は、グローバル化している現代世界において、日本とアメリカの司法を区別する意味は薄れているからです。世界各国の司法の区別は、単なる地理的区別に過ぎません。「主権」があるとかないとか、そういう議論はもはや意味がないのです。
2点目は、「一事不再理」は自由主義国家にとって、この上なく重要な原則だからです。
FBIは「重要な新証拠」が出たといっているそうですが、それでも「一事不再理」の原則は守らなければなりません。「一事不再理」とはそういう原則なのです。いくら世界最悪の極悪人(あくまで例えです。三浦氏のことではありません。誤解なきよう。)であっても、一旦無罪判決が出れば、その人は自由です。警察・検察にとっては無念でしょうが、「一事不再理」とはそういう原則なのです。
なぜそこまでして「一事不再理」の原則を守らなければならないのか。それは、「油断」から「権力の暴走」が始まるからです。たかだか三浦氏を逮捕したぐらいで、権力が暴走するわけがない、と誰もが思うかもしれません。でも、それが「油断」なのです。ヒトラーが、当時としては世界一民主的な憲法だった「ワイマール憲法」から生まれたという事実を忘れてはいけないのです。
こんなことを言うと「左翼」のレッテルを貼られるかもしれませんが、それでも私はこのことを主張したいと思います。なぜなら、いつも声高に「人権」を唱えている評論家たちが、今回の三浦氏逮捕についてはトーンダウンしているからです。





